固定観念がその信頼関係をダメにする
なぜ、土地が違えば言葉が違うのか?世界共通で同じ言語になって欲しいとつくづく思う。
先日、外国人に可哀想なことをしてしまった。
英語ってむずかしい
出張で高松に行っていた際の話。自宅に着こうと大阪環状線の大阪駅から外回りにの電車に乗車した。
この外回りだが、USJ帰りの方が多く乗車されている。(ユニバーサルシティー駅から大阪駅に来るため)
東京で言えば山手線のようなもの。
大阪駅から揺られること10分ほど。
間もなく京橋駅に到着するというところで、横に居たユニバ帰りの外国人が私に話しかけてきた。
外「これは、ウメダいきますか?」
私「(3つ前やん)えーっと、、モウ、ウメダ過ぎました」
外「????」
全く伝わってない。
そらそうだ。
日本語をカタコト風で喋っただけだから
ただ、「過ぎた」って英語でなに?え?全然わからん。
そんな時ふと、京橋駅の時刻表を見たら、「環状」になってたんで、時間かかるけど一周したら行けるやん???乗っとけば行けるやん?と思った。
私「OK!OK!ウメダ行ける!このまま ride on!OK?」
外「(苦笑い)」
私「(苦笑い返し&クソ恥ずかしい)」
苦笑いとか辞めて欲しい。めちゃくちゃ恥ずかしいし。
「常識」という固定観念
私は、自分の駅に着いたので、「まぁ、伝わらへんかったけど、ええ事したなーーー」と思っいながら歩いていた。
しかし、ある事に気づいた。
あれ?????
環状線に梅田駅ないやん?そもそも。これ、一周しても降りひんのちゃうん?
外国人の方すいません。梅田=大阪なんだ。
JRは「梅田駅」という駅は存在しない。梅田駅は地下鉄か阪急か阪神だけである。
英語うんぬんというより、「梅田=大阪」というのが共有認識であると思っている
この考えがダメであった。
研修中に、「ゼロベースで考える事が大切だ!固定観念をなくせ!」などと言っている自分が、共通認識に依存しまくっていた。反省すべきだ。
「皆知っていると思う」という前提を持ち物事に取りかかる。この姿勢はやはりダメなんだと再認識した。
ただ、環状線に梅田駅がそもそもない!と、あの場で気づいたとしてみよう。
英語で喋れる?否、絶対無理。つまり、あの場で気づいたところで私の英語力では、どうあがいても無理であった。
日本における母国語以外の姿勢
少子高齢化で日本の人口が減って行く現状を考えると、海外から労働力を持ってくる動きが必ず強化する。
そうなった時、日本語しかできなければ意思疎通もできないし、第一日本語しか喋れない日本という島国に、有能な外国人がわざわざ来るのか?と思う。
逆の立場で考えてみると、もし現地民が「母国語以外(しかもその国しか通じない)」を喋ることができないとなると、移住しようとは気がすすまない。(物価と収入によるが)
要するに、受け入れ態勢として英語が喋れる人が増えていることが望ましいんではないか?
自身の恥ずかしさを身にした今、改めてそう思う。 英語勉強しよ。