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お金で「愛」や「命」は買えるのか?真剣に一日考えてみた

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 前回の続き。「愛」と「命」はお金で買うことができるのかという題について考えてみたい。

前回と同様に、私は「お金で買える」と思っている。厳密にいえば、お金で買っているのと同じ」だ。なぜそんな「慈悲のないことが言えるのか」という意見があるかもしれないが、私なりの考えをまとめていく。

お金で愛を買うなんて純愛ではない?

 よく聞くのが、『本当の愛があればお金がなくても支えられる。お金で買った愛は、単純にお金の魅力であってその人の魅力ではない。「お金で買える」なんて言う人は、本間の愛を知らないだけであって、お金で買える愛があり得たとしても、それを育むことの方が難しい。そもそも愛に値段なんかつけれないし、つけれる愛があるならばそれは嘘の愛だ。』

もっともらしい意見にみえる。ただ、「お金で買った愛は、その人の魅力ではない、お金の魅力」という意見には少し違和感を覚える。

仮に「毎月500万渡すので、私に愛を提供してくれ」といって、愛を買ったとする。よく言われるのが「そんなのはお金が無くなったら終わり、愛とは言えない」という意見。

まあ、そらそうだ。「500万で提供」という約束であるなので、500万の支払いができなくなったら提供が終了するのは当たり前。

ただ考えてみて欲しい。この約束が成立している一ヶ月間は「愛を買えている」わけだ。もし、1,000万あるのなら二ヶ月間も買えることになる。

ここで反対派は、「いやいやそれはその人の魅力ではなく、お金の魅力でしょ」と言うだろう。

これもまたおかしい。500万を貰った側が仮に「その人じゃなくお金に魅力があった」と述べたとしても、その人の魅力を肯定していることになる。

お金というのは対象物と交換をする手段であるのでお金じたいに価値はない。人の労働力を「形に変換したもの」が「お金」だと仮定すると、「金=その人のスキル」ということになる。つまり、「500万があるのは、その人にスキル(魅力)があるから」と言えるので、「金に魅力がある=その人に魅力がある」となるわけだ。(親の遺産、ギャンブルでのお金でもその人の魅力といえるが、長くなるので割愛します)

 

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 恋や愛という感情が起こるプロセスを考えてみると、私が言いたいことはわかるはず。

例えば、私はA子さんが好きだ。でも、A子さんは私が嫌いである。この段階では私に対して「恋愛感情」はない。では、A子さんからお金で恋愛感情は買えるのか。

答えは「現生では難しいが、結果として"お金"を掛けることになる」だ

例えば、A子さんを振り向かせるためには、「○○しよう」と努力をする。

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で、結果としてA子さんは「私のために努力してくれた」といって付き合ってくれたとしよう。

もうお解りのとおり、努力をする過程で「お金」を使っている。つまり、「お金を使ってA子さんに認められるよう努力した」となる。「A子さんの興味」をお金で買っている。これは、お金で愛を買っていると考えられるのではないか?

また、友人に質問をしてみた。「自分のパートナーが年収100万だったらどうする?」

その際に「自分がその分稼ぐ」と言っていた。でもそれって、「相手と生活するうえで必要な費用を自分が肩代わりする」じゃないのか?なので、逆説的に「お金を使って愛を維持している」ことになる。 

「愛を育むのにお金がかかるのは当然だ」こんな意見も出くるだろう。だがこれも「じゃあ、お金がなかったら育めない」という証明になり、結果「お金を使って愛を買っている」ことになる。

要するに、現生や高級プレゼントで「はい、君の愛は○○円ね」というのは直接的で冷徹に映るから、買えないと言っておきたいと思ってしまうのではないか。もしくは、それを了承してしまえば自分が非人道的な人間と思われると考えているのではないか。

命に関わるものにはお金が動く

 「はい。あなたの命は○○円です。売ってください」通常の人は理解しがたいはず。

でも、凶悪犯に我が子を人質に取られた場合、身代金を要求されれば払うだろう。また、身内が重病で入院していて高額の手術代がかかる。これもなんとかして払うだろう。状況が違うがこれらは同じこと。

「命をお金で買う」と聞くと道徳的に良くないことだと感じる。でも実際は買っている、もしくは買おうとしている。

例えば、未熟児の赤ちゃんが産まれてすぐに手術が必要となる。両親が「先生、どんな高額な費用でも用意します助けてください」といってお金を工面した。でも、無情にも助からなかった。「やっぱり金じゃ命は助からない」と考えになりがちだが、それは違う。

医療が発達していなかったから助けることができなかった。と仮定すると裏を返せば「発達していれば助けることができたとなる。では、どうすれば発展するのか?

研究費や医薬品の開発費用が必要。つまり、お金が医療発展に行きわたっていれば助かっていたということになる。超お金持ちの人が、自分用の研究医療施設を保有しているという話も聞く。

生命保険もお金が絡む。被保険者の命と引き換えにお金を受ける仕組み。言い方は悪いですが、命を売ってお金を受けている。これも、お金で買っていると考えることができる。

保険というものはギャンブル要素がある。保険会社が同元となって「ケガ」「事故」「死亡」の確率を算出する。被保険者は参加費(毎月の保険料)を払ってどれかが該当すればお金が貰える。該当しやすいものは参加費が高く、該当しにくい者は参加費が安い。被保険者の状態(年齢、職業)によって毎月の保険料が違うのはこのため。

また、葬儀屋なんてなくなりはしない。絶えず生命はなくなるから。発展途上国ならまだしも、日本みたいなお金を持った先進国では、間違いなく亡くなった方にはお金が動く。(必ずではないとは思うが)遺産相続で骨肉の争いをしているのを見ると胸が痛くなる。

ただ、「お金で買える」といいつつも、お金というものさしで測りたくないと思いもあるのは確か。

みなさんも、実は「買える」と思ってるのではないか?

 なぜ、買えない派の意見がもっともらしく聞こえるのか。理由は2つある。

1、「お金は万能ではない」と信じたい

2、言葉の定義があいまい

身近なものこそ、そう思う

 「お金は万能ではない」という人は、そう信じたいだけなのじゃないかと思う。

稼げない自分を正当化させたい人の言い訳ではないか。稼いでいる人への嫉妬。もし仮に、無人島に遭難してしまったらと考えると、生き伸びるためにお金は役に立たない。お金よりもライターやナイフのほうが大事。ただ、資本主義社会で、なおかつ治安の良い日本で生きる私たちに、その優先順位があてはまるのかと言われれば、疑問が残る。

あらゆるものを金で買える。と肯定してしまえば、自分では買えない額のもの(しかも身近な)が出てくる。

油田とか島とかも自分の稼ぎでは買えない。これらは身近なものではないので割り切れる。しかし、「愛」とか「命」は自分に身近に存在する。「買える現実」を受け入れてしまえば、自己否定になる。なので、「お金は万能ではない」と信じたいと思ってしまうのではないか。

共通のステージで議論できない

 「人の命は価値をつけれるのか」と耳にするが、その価値とはどういったモノなのかが曖昧になりがち。例えば、その人の稼ぎ以外の「その人が存在する意義」であるとかを含むのであれば、難しい質問となる。なぜなら「存在意義」も曖昧で定義できないから。

これと同じように何を持って「愛」と定義するかによって意見が変わる。このような哲学的なものは、言葉の定義が解釈の違いを生み、捉え方が変わってくるから。

また、先述したが、「自分が非人道的な人間と思われる」と考えている人は少なくとも存在しているはず。

もし私の最愛の人や家族が亡くなって、保険金が10兆円降りたとしても、10兆円の価値があるなんて思わないだろう。心のどこかで認めてしまえば自分が非人道的な人間と思われるのではないか」と考えてしまうから。

命の価値というものを、そのひとが生涯稼ぐであろう賃金として考えるのならば、価値をつけることはできる。

ただ、みんなが同じ定義で価値をつけたりはしない。なので、「愛」や「命」という言葉の定義が曖昧なままでは結論はでないといわけ。

ただ、付け加えるならば、現在の資本主義社会では、目に見えない「愛」「価値」「友情」などをお金という「ものさし」で量ることで、ある程度の価値基準作ってる。合理的に物事を遂行するためには「お金」という基準が必要で、これがなければここまでの発展は成しえなかったはずだ。こう考えると、「お金で愛、命を形作っている」といえるのかもしれない。

今回の考察に意味があるのかと問われればあるとは言えない。ただ、思考することは面白いことで有意味な時間を過ごせた気がする。