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他人に触れることで自分を認識する

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 全ての存在は他があることで成立する。自分を自覚するには他者が必要であり、それがないと自分が自分なのかさえわからない。

 とある雑誌で仏教の慈悲について書かれているコラムを見た。日本は宗教意識が低く、自分がなんの宗派かさえ知らない人は多いのではないか。 

日本は、正月には神社に初詣をして、クリスマスにはお祝いをして、お盆には墓参りをします。神道、キリスト教、仏教が入り混じった不思議な文化だ。

慈悲の心とは?

慈悲(じひ)とは、仏教用語で、他の生命に対して自他怨親のない平等な気持ちを持つことをいう。一般的な日本語としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫」(mercy) の気持ちを表現する場合に用いられる。

慈悲と二文字並べて使用されるが、本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の単語である。「慈悲」は(仏教用語として)一般に、「慈しみ」と「憐れみ」を区別せずに両方を含んだ意味で使われ、あまり厳密ではない。

四無量心、四梵住とも呼ばれる

 

-ウィキペディア

 すべての人に対し、敵味方を分けることなく深い愛情を持ち、苦しみを取り除き楽を与えること、思いやり、慈しみ、あわれむ心のこと。また、自分と同じように他者を慈しみ、他者の悲しみを自分の事のように感じること。といった解釈で間違いはないと思う。

とはいっても、、他者を自分と同じように思いやるなんて、簡単にできるわけではないし難しいことだ。仏教は奥が深い。

他に触れることで自が成立する

 今回の記事タイトルにあるように「自の存在」について考えてみた。

コラムを読んだとき、「自分の存在は周りの人がいるからこそ自覚できるものなのか」。  

「 自分の存在は周りの人がいるからこそ自覚できるもの」というのはどう言うことなのか?  

例えば、生活をしていると「温度」を必ず感じる。暑い、寒い、冷たい、ぬるいなど、その環境に応じて温度が存在する。この、温度を感じるときには、その対象以外の温度に触れたときに、対象の温度を感じるはず。  

とある日の外の温度は1度だった、家に帰ると部屋は20度であった。この場合は「暖かい」と感じる。しかし、外の温度が30度で、20度の部屋に入ると「涼しい」と感じるはず。同じ20度なのに感じ方が違う。「1度」があるから、20度を暖かいと感じるし、「30度」があるから20度を涼しいと感じる。つまり、20度というのは単独では存在できないと考えることができる。  

このように、外気温があるから部屋の20度を感じれるわけだ。つまり、他があるから自が存在すると言える。

他の大切を知ることが重要なのか?

 他のものに触れることで、自が存在するのであれば、仏教の慈悲の心とは、単独では存在できないからこそ、他のもの(他人)に慈悲の心を持ちなさい。というのに通ずるのじゃないか。  

人に優しくありなさい。と幼少のころに受けた教育は宗教観を育てていたのかもしれない。ただ、日本では「宗教」というワードに嫌悪感を抱きがちだ。変な新興宗教で洗脳されるだとか、毎朝の行いを奇行だとか。  

私自身も同じような嫌悪感を抱いていたのだが、世界宗教の書籍に触れたことで、そういう人たちも居てもいいんじゃないかと思うようになったし、先述した日本人の宗教観の薄さにも気づいた。  

日本人はこうあるべきなどというつもりはないが、日本人として日本に生まれ育ったのであれば自身の出自は知っておくべきではないか。  

周りに感謝をして日々生活を送る。この考えは最近薄くなっていたかもしれない。再度認識を持つことで、周りの接し方に変化をつけてみようと思う。