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【読書】蜘蛛の糸 / 芥川龍之介

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 社会的に疎まれるのは「自分勝手」、いわゆるエゴイズムか強い人間。 むしろそれを忌み嫌うほうが好ましいとすら考えられている。人間は結局、利己的な存在なんですけどね。 

 最近、電子書籍 Kindleの購入を考えています。だってね、セールで激安だったりするんですよ。雑誌が99円だったり、90%OFFになっていたり破格なわけですよ。

検索してみると無料書籍が結構あり、良書もなかなかあるんですよね。Amazonの撒き餌作戦に引っ掛かりそうです。

蜘蛛の糸はご存知でしょうか。知らない人は少ないと思います。芥川龍之介の作品で、小学校の授業で読書感想文を書きましたよね。同じく、羅生門も授業でやりましたが、「なにこれ、むちゃ怖いやん」と思った記憶が懐かしい。

無料書籍の中にあったので、懐かしさのあまりダウンロードをしてみました。当書の読書感想として、「人の欲深さ(エゴイズム)を表した一冊」だと感じた。

自分一人だけが助かろうとしてはいけないんだな、と子供ながらに考えたことを覚えています。

今回改めて思ったのが、「久しぶりに読むと、また違う視点で見れる」ということ。年を重ねると視野が広がるとはこのとですね。すこし思考をめぐらしたので、久しぶりに読書感想文を書いてみることにします。

簡単なあらすじ

 ある日、極楽にいるお釈迦様が散歩中に蓮池を覗いた。池の底は地獄に通じており、そこにはたくさんの罪人たちが働いていた。

その罪人の中に、「カンダタ」という罪人がいた。ただ、彼は生前に善行を一つしていた。それは、蜘蛛の命を助けたこと。

お釈迦様は、蜘蛛を助けた報いに、カンダタを救ってやろうと考え、蓮の葉にかかっていた蜘蛛の糸を手に取り、極楽から彼のいる地獄に垂らした。

カンダタは、上から垂れてきた蜘蛛の糸を見つけ、それを登り始めた。ただ、地獄から極楽まで上るのは、簡単ではなくとても遠い。

途中、休憩をしていたところで気づく。下を見てみると、無数の罪人が同様に糸を登ってきている。

蜘蛛の糸は細い。無数の罪人の重さに耐えられないと自分の身を案じ「これはおれの糸、下りろや」と言い放った。

すると、その途端、蜘蛛の糸は切れてしまい、カンダタは再び地獄に落ちていった。

その様子を見ていたお釈迦様は、悲しそうな表情を浮かべて、蓮池から立ち去った。

エゴが出ていたのはカンダタだけなのか? 

 重さで切れたのか、己のエゴにより切れたのか、作者の意図はおそらく後者だと思います。(蜘蛛の糸の時点で、カンダタのみでも不可能なので、物理的な理由ではないはず)

現代に置き換えると「競争社会の中で、人は利己的な存在でしかありえない」これを言い表した作品ではないかと思う。

ただ、この「エゴ」は、はたしてカンダタだけに当てはまるのでしょうか。

一般的には、カンダタの欲深さを描いているといわれています。確かに、彼の中で「自分だけが助かればいい」という思いがあるようにも見れる。またそこに、人が持っているエゴイズムを感じる。

カンダタはこう思ったのではないでしょうか。今にも切れそうな糸に自分以外が群がれば、糸は切れてしまう。切れるとまた地獄に戻ってしまう。なんで、お前ら来るんだ。おれは極楽まで行きたい、おれの糸に触るなと。

とてもわかります。助かる道が見えていたら、迷わずその道を行きたくなります。地獄のようなツラい場所で見つけた道ならば、我先にという気持ちもわかります。人はそういうものです。

ただ、手を差し伸べたお釈迦様側にもエゴを感じるのです。

自分の存在を「思いやり」で肯定

 何故かというと、「お釈迦様は本当に救おうとしたのか」と、どうも引っ掛るんですよね。私には「救ってやろう」こう考えていたとは思えない。だって、救おうと考えていたならば、蜘蛛の糸じゃなく違う方法がいくらでもあるし、行動の動機も恣意的なんですよね。

散歩をしていたら、蓮池の底にカンダタを見つける。ふと彼が生前に蜘蛛を助けたことを思い出す。近くにあった蜘蛛の糸を垂らす。

これって、あまりにも恣意的ではないですか。なんの為に糸を垂らしたのでしょうか。気まぐれ感半端ないですよお釈迦様。

もし仮に、「可哀そう」という思いで糸を垂らしていたとするなら、それは罪人を助けるという「善行」をした余韻に、浸りたいだけなのではないのか。理不尽に希望を与え、理不尽にそれを奪う。見方によるが、自分の理想のあてつけ。つまり、エゴイズムにかられた行動ととることができます。

また、仮に「カンダタは極楽に行くのを、そもそも望んでなかった」とした場合、押しつけの思いやりになります。「地獄にいるのはきっとツラいでしょう、助けてあげよう」ツラいと思っているのは、助ける側の勝手な決めつけかもしれないですしね。

障害を持っている方を可哀そうと勝手に思うのと同じ。

相手のためなのか、自分のエゴなのか。暗闇に糸を垂らせば飛びつく。それは傲慢な考えにすぎないし、善意を装った自己満足ではないか。こう考えるとお釈迦様にもエゴイズムを感じないでしょうか。(結果的には、糸を登ったのですが)

人は他を利用して善行に浸りたい

 「自分だけが助かればいい」これは紛れもないエゴですが、「可哀そうだから助けてやろう」も傲慢なエゴだと思います。「助けてやろう」といえば確かに聞こえが悪いが、「助けてあげたい」としてもその意味はなんら変わらない。

不謹慎かもしれないですが、SNSにて「○○が××になってしまった、みなさんシェアをして欲しい」という投稿を目にする。物が無くなった。何かの被害にあった。人の行方がわからなくなった。

この投稿に対し、シェアをしている人が居ますが心理状況はこうではないか。「可哀そうだな、見つかれば(助かれば)いいな、ボタン一つで拡散できるな、善い行いだからしておこう」この思いは一ミリもないのでしょうか。

これは、お釈迦様と同じで、善い行いをしている自分が少なからずあるはずです。相手のためかと思いきや、善行をしている自分に満足しいるのかもしれませんね。

まとめ

 一つ考えると色んなことが頭を流れていきます。一つの思考が連鎖をおこし、また違う思考が生まれる。

論語で孔子が残した言葉に「学びて思わざればすなわちくらし、思いて学ばざればすなわち殆し」というものがありますが、まさにその通りだと思う。学んでも自分の頭で考えなければ本当の教養にはなり得ない。

何かをインプットした際には、それで終わらず自分の頭で思考することが大切だと思います。蜘蛛の糸を久々に読んでみて、「エゴ」についてこんなにおもしろく考えることができました。

新しいことにだけに学びがあるとは限らない。今まで自分が積んだ経験にも、学びのヒントが隠されているかもしれません。目新しいことだけを追うのではなく、過去の経験を振り返る。そんな時間も大切かもしれませんね。

 

(補足) 

 最後にきて、また一つ考えてしまいました。「お釈迦様は、蜘蛛の糸が切れてしまうことを、初めから分かっていたのではないか」ということです。(永遠と書けますね、これ)

「人はエゴイスト。でも、その欲求に耐えることができるのか見てみたい」こう思っていたとすれば、見方を変えれば遊びですよ。釣り感覚。

人の欲深さは知っているけれど、それでも良心を試した。というならばそれもそれで意地が悪いですよお釈迦様。