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【読書】甘えの構造 / 土井健朗

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 当ブログで何度か記事にしている「他者依存」。この他者への依存についてもう少し考えてみようと思い、何気なく書店でぶらぶらしていたところ当書を見つけた。今から40年ほど前に出版された日本人論を代表する書籍らしい。

 「甘え」という表現は日常生活を過ごすうえで身近な言葉だが、世界的に見ればこれに対応する明確な言葉はないとされている。

 ってそもそも「甘え」とは結局なんなのか?甘えというのは、周囲の人に好意を持ってもらいたいという他者依存だと定義できる。今回はこの「甘え」について、読後の感想をまじえ考察をしてみたい。

甘えのエピソード

  当書の冒頭に、著者がアメリカで体験したエピソードが書かれてあった。

「あなたはお腹がすいているか、アイスクリームがあるのだが」ときかれた。私は多少腹が減っていたと思うが、初対面の相手にいきなりお腹がすいているかときかれて、すいていると答えるわけにもいかず、すいていないと返事をした。私には多分、もう一回ぐらいすすめてくれるであろうというかすかな期待があったのである。しかし相手は「あー、そう」といって何の御愛想もないので、私はがっかし、お腹がすいていると答えればよかったと内心くやしく思ったことを記憶している。

-第一章 甘えの着想 P.15

いわゆる遠慮するフリ。みなさんもした経験があるはず。本当は欲しいのに、「あ!大丈夫ですよ」と言っちゃうやつ。これは他者に対して「好意を持って優しくして欲しい」という甘えになる。

著者はいくつかのテーマをもとに、この「甘え」の定義、解説をしている。日本という国で起きている犯罪や諸問題の根源には、この「甘え」が土台として存在し、日本人的文化として根付いてるんじゃないか?

先述したが、世界にはこの「甘え」なる語彙がない。一方、日本はこの「甘えの概念」を許容する社会文化ができており、普遍的に存在しているし、そこに「日本人らしさ」を感じる。何故、許容する空気になっているのだろうか?

では、興味を持った3つのテーマをもとに書いていく。

  • 甘えの語彙
  • 内と外
  • 罪と恥

甘えの語彙

 ここでは、「甘え」に相当する言葉をあげながら、甘えの心理について説明されている。「甘んずる、すねる、ひがむ、うらむ、たのむ、とりいる、気がね、すまない、なめる」など多くの言葉が「甘え」を含んだ表現だと著者は言う。

確かに、「すねる」は素直に甘えられない人がよくとる行為だ。甘えられないということは、裏を返せば甘えたいということなので、「甘え」を含んだ言葉となる。また、「うらむ」は、自分の甘えが拒否されて出す敵意だが、憎いといった意味よりももっと纏綿としたところがある言葉だと著者は言っている。つまり、これらの言葉は、負の感情ではあるが、背景に根本的甘えがあるということだ。

この章でおもしろかったのは「すまない」についての内容。「すまない」という言葉は、謝罪と感謝として異なった使い方ができる不思議な言葉である。

例えば、ミスをしたときに「すみません」と言うし、お土産を貰った際にも「すみません」と言いう。このことだ。

相手に悪いと思っているさまをいう語。謝罪謝礼依頼などの場合に,同等あるいはそれ以下の相手に対し用いる。申しわけない。 「苦労をかけて-・ないね」 「君には大変-・ないことをした」 「 - ・ないけどライター貸してくれ」 〔「すみません」よりもぞんざいな言い方〕 → すみません

-weblio辞書

weblioにあるとおり「苦労をかけてすまない」というのは、感謝のすまないを表している。要するに、感謝というのは相手の親切な行為に対して謝罪をしているということ。お土産を買ってきてくれたというその行為が、その人にとって若干の負担をかけてしまったことに対して申し訳なく思っている。こういうこと。

日本人の心理には、相手の行為に感謝するだけじゃなく、その行為に対して詫びるという思いがある。

なぜ、こう思ってしまうかというと、詫びる気持ちがないと、相手が非礼と取ってしまい、その結果相手の好意がなくなってしまうんじゃないかと不安になるからである。

つまり、今後も「甘えさせてください」という意味を込めて「すまない・すみません」と言っていると解釈できる。「すまない」という言葉の裏には相手の好意をつなぎとめたいといった意味が込められているということだ。

内と外

 日本人は人間関係を内と外で区別し生活している。「身内の」とか「(出身大学を)ウチの学校では」などと言った経験はあると思う。特に意識せずに使用しているこの内と外を著者はこう定義している。

遠慮の有無は、日本人が内と外という言葉で人間関係の種類を区別する場合の目安となる。遠慮がない身内は文字通り内であるが、遠慮のある義理の関係は外である。しかしまた義理の関係や知人を内の者と見なし、それ以外の遠慮を働かす必要のない無縁の他人の世界を外と見なすこともある。いずれにせよ内と外を区別する目安は遠慮の有無である。

-第二章 「甘え」の世界 p.62

遠慮があるのは外に対してで、遠慮しないのは内に対してだということ。これは、まさにそうだと思う。身内である家族に対し(特に親子の関係で)「遠慮する」という行為はしない。これは、家族(親子)の関係が甘えに浸されているからであると著者は言う。

日本人は何かにつけ「遠慮する」人種だと思う。礼儀作法のひとつであり、相手に対して気遣いをはらう。これは、人間関係を円滑にする手段とされていて、ある種の「美徳」と捉えられている反面、遠慮しておかないと図々しいと思われ、相手に嫌われるんじゃないかと危惧が働いているのだろう。つまり、 遠慮しながら甘えているということだ。

このように、内と外によって態度を変えることは普通だと考えられているので、身内にはわがままになり、外では自制するという結果に結び付くのである。

罪と恥

 よく言われるのが、「欧米は罪の文化」で「日本は恥の文化」という違い。罪というのは内に感じて外に向かう、恥というのは外に感じて内に向かうと定義できる。

欧米では一神教を信仰する人たちが多く存在する。悪い行いをすれば神に対する「罪」の意識を抱き、内面的な問題として罪悪感を持つはず。それに対し、多神教の日本では神への意識は極端に弱い。

そこで思うのが、「意識が神ではなく、周りの目に向かっているんじゃないか?」ということ。神から罰を食らうんじゃないかということよりも、他人から向けられる自分への視線がどうなのかを常に意識しているのではないか?つまり、これは自分に対する「恥」を感じているというわけで、他者との相対的な関係により浮き出る感情である。

「罪」というのは、普遍的な規範に違反した意識と言えるのではないかと思う。罪を抱く文化圏の人は、もし自分が正しいことをしているという確信があるなら、周囲から笑われてさげずんだ目で見られても、恥ずかしいとは思わずに、むしろ周囲が無知だと考えるのではないだろうか。

罪の告白をする懺悔室というものがあるが、日本には神に対する罪の告白という慣習はない。罪は告白すれば心が軽くなるのに対し、恥は告白しても軽くなるわけでもない。とは言っても、日本人が罪を感じないわけではない。

日本人の罪悪感は、自分の属する集団を裏切ることになるのではないかという自覚において、最も尖鋭にあらわれることが特徴的である。

-第二章 「甘え」の世界 p.75

要するに、自分が属してるグループの人達からの信頼を損なうことに対し、罪悪感を感じるということ。一番近い身内の親に対しては、この罪の意識は自覚されないが、外に行くにつれて感じてしまう。これは、「恥」という他人の目を気にしているからであり、裏切りという「罪」を犯した自分に対し「恥」を感じていることになる。

どちらがどう良いなどと言うつもりはないが、双方の違いを理解しておくことは大切なのだろう。

まとめ

 日本人に内在する「甘え」という不思議な感覚は、こうやって文字にしなくても私たちは日々感じているし、相手から向けられている。なので普段は特別気にしない。

当記事の冒頭で記した、「何故、日本にはこの「甘えの文化」が許容されているのか」だが、先述した3つのテーマの中に答えがあるんじゃないかと思う。

  • 身内と他人というものさしで内と外を区別し遠慮をするかしないかを決定する
  • 恥じるという気持ちが強く、罪を犯した自分を恥じてしまう
  • 何にでも謙虚な姿勢を取りつつ、相手の好意を繋ぎ止めたいと思う
  • もしくは、どこかで理解してくれてるだろうと期待を抱いてしまう

これは何故かと考えてみると、「日本は吸収する文化で成長してきたこと」に関わりがあるように思える。

今の日本にあるモノは、外来思想をアレンジしたモノで溢れている。異文化を取り込むのは悪いことではなく、私的には肯定派なのだが、ここで言いたいのは「吸収するということは他社がいる」ということだ。つまり、他者がいて成り立つのだから相手に対して甘えている「他者依存」に他ならないということではないか。

日本は経済的に大人になったが、文化的・精神的には幼児的な姿を残しているのではないか?他者に依存しっぱなしの母子未分離状態と言えるのではないか?

「甘え」という言語に、何かしら感じたことがある方は、是非一読をおすすめする。

「甘え」が先か、「甘える」が先か

 記事を書いている途中でふと考えた。「甘えるという行動があって、甘えと言われたのか?」「甘えという言語があり、甘えるといった思考ができあがったのか?」 

もしも仮に、サピア・ウォーフの「言語が思考に影響を与える」という「言語相対論」が正しいとするならば、この「甘え」という言語は、日本人らしさの形成に影響を与えていると言える。世間一般では思考があって、それを表現するために言語を使うと言われがちだ。言わば道具として言語を使用すると考えらている。

だが私は、「甘え」という言葉があって、「甘える」という行動が根付いているのではないかという「言語相対論」はあながち間違いないかと思う。思考が先だと考えた場合、何をもって思考できるのかということになるから。

もちろんこの「甘え」という一語だけで考えると違和感があるのは確か。しかし、甘えの語彙で紹介したとおり、「甘え」には複数の意味合いが混合されている。この複数の言語が「甘える」という思考を形成しているのではないかということは考えられるはず。

当たり前に生活しているこの生活様式は、文化・言語が異なるコミュニティーでは捉え方が違ってくるのだろう。