「多分」や「だったはず」をよく使う人!それは他者依存の前兆かも
電車でとある就活生の男の子に遭遇した。どこかの面接なのか、電車内で写真の貼りつけや、清書など履歴書の作成をしていた。(そんなものは事前にやっておけ)
横に座っていた私は読書をしていたのだが、そこに就活生が話かけてきた。
「あのー、もし良かったらボールペン貸していただけますか?」
彼は、ボールペンを持っていなかった。これから面接だというのに。
私は、「消えるボールペンならありますけど、いいですか?」と答えた。
そこで、彼はこう言いはなった。
「あ、多分大丈夫だと思います」
これ、なんか違和感がないか?自分の面接で、自分の履歴書だというのに、「大丈夫だと思う」というのは妙に引っ掛かる。なぜ、他人事なのだ。
いいわけ思考は、自分の意見を薄くする
彼はなぜ「多分大丈夫」と思ったのか。気になるのが「大丈夫と思う」のは誰なのか?という点。
自分が思うのか、面接官が思うだろうなのか。
恐らくかれは後者であろう。「大丈夫」という言葉の意味を調べてみた。
- あぶなげがなく安心できるさま。強くてしっかりしているさま。「地震にも―なようにできている」「食べても―ですか」「病人はもう―だ」
- まちがいがなくて確かなさま。「時間は―ですか」「―だ、今度はうまくいくよ」
- goo辞書
「多分大丈夫だと思う」をくだいて言うと「おそらくまちがいないと思う」。えらく遠まわしな表現だ。
これって、自分がこれからとる行動に対して、まちがいないか?と他人(私)に確認しているのに他ならない。
自信がないときに「多分」という言葉が使われがちだが、「おそらくまちがいないと思うのですがどう?」という意味があったならば「自分で考えることが重要やで」と言ってやりたい。
なんで、こうも遠まわしに確認したり、他社(面接官)に依存してしまうのか。
原因として「いいわけ」グセがついてるからじゃないのではと思う。
自分がくだした決断に対して、非を認めたくないと思っているから、「多分」とか「思う」を使って自分の意見を薄めているのではないか。この行動は自分だけの決断じゃない。みたいな。
「 自身がないから、自信がない」
自分の意見をしっかり持たないと、他人任せで依存してしまう。自信をつけるためには、自身を持つことが重要。
補足
大人も遠まわしに言うことが多々ある。「○○していただきたく存じます。」
遠まわしに言って相手を気遣うのは、日本の文化かもしれない。