メディアと私たちの関係性は逆転しつつある
個人が自覚関心を持たないといけない。こう思ったのには理由がある。
以前にメディアリテラシーについての記事を投稿し、メディアの脆弱性に触れ「個人の判断」が重要であると記載した。
先日、テレビを見ている時にさらに強く感じた。なので、今回はこの疑念をまとめてみようと思う。
チャンネルって意味あるの?
何気なくテレビを付けチャンネルを回していた時ふと感じた。
「全局同じような内容やん!タレントのキャスティングも似てるし!着ている服までも同じやん!」
昔は、テレビにかじり付いて番組を見ていたし、テレビなしでは生きられないとまで思ったくらいだったのに何故かがっかりした気持ちになった。
さてここで、疑問が出てくる。「何故、放送局に違いがなくなり、チャンネルという枠組みが形骸化してしまったのか?」
パワーバランスが崩れ始めている?
原因は様々だと思うが、消費者の「情報(関心)」を得るフローが与えられるから自ら選ぶに変化してしまったからではないか?
今までは新聞やテレビが主体で、消費者に対し「情報」を与える立場であった。「社会人なら新聞を読まないとダメ」と言われた経験があるが、これは新聞・テレビが社会問題などを発信して解説をする主体だったからではないか。
現在では、新聞・テレビにかわりインターネットが重要なツールになりつつある。
しかも、モバイル化した携帯に関しては、日本の人口を超える普及率となっており、いつでもどこでも「情報」を得る環境が整っていると言える。
つまり、今まで存在していた「メディア>消費者」という関係から「メディア<消費者」というパワーバランスに変化し、受け手側が「情報」を選べる時代になってきているということ。
「流行」の発信源はどこなのか?
以上のとおり新聞を読まなくても社会問題に触れられるようになった。
パワーバランスが崩れたということは、流行の発信源も変化してきているということになる。
昔は、新聞やテレビが「流行(社会の論点)」を流す主体であった。しかし、ある時点で
「消費者が流行(社会の論点)」を作るようになったのではないか。
ムーブメントが外から内に投げられるのではなくて、内から出てくるようになっていると感じる(昔からこの流れはあったが、加速してきていると思う)。
学校で考えると分かり易い
教師という「与える側」がいなくなると、生徒は自分の関心のあることをしようとする。まさに、自習の時間のような感じ。
この教師と生徒の関係性を現代のメディアに置き換えると以下となる。
- 教師=新聞・テレビ
- 授業=社会の議論
- 生徒=消費者(我々)
「教師が授業を生徒に教えている」
「新聞・テレビが社会の議論を消費者に与えている」
この関係性が崩れ自習の時間のように、生徒は自分の好きなことをするようになっている。
厳密に言うと、教師は教室に居て授業をしているけれど、生徒は教師を見ずに自分のやりたいことをやっている状態。
そして、教師は生徒に振りむいて欲しいので、生徒の関心事ばかりをやるようになる。
ただ、生徒はスマホやPCというツールがあるので、ちょっとは振りむくけど長続きはしない。
メディアにも同じことが言える。テレビが消費者に媚びるような番組ばがりをするのは、このような教師と生徒の関係性に変わってきているからではないか?
イニシアチブは消費者(生徒)にあるということか。
大切な問題も「流行」になっている
この流行の発信源が変わりつつある点は問題視するべきである。
人は24時間と限られている中で、関心を持つモノへの時間配分が限られてくる。
その中で、「新聞、テレビ、ネット、ラジオ、スマホ」など全てのメディアはフラットな存在である。
消費者が「見たい、知りたい情報」を自分で選べれる現状が、チャンネルという枠を形骸化させている原因のひとつであることは間違いないと思う。
情報を得る方法が多様化した現代では、消費者の関心がなければフローの情報へとすぐになってしまう。
本来はもっと真剣に考えないといけない問題も「流行」として流れてしまっているのではないか?
大きな事件があれば、メディアであれ消費者であれ目を向ける。例えば、東日本大震災やイスラム国拉致事件など。
ただ、時間の経過ともに興味が薄れていき、知りたいという欲求も同時に薄れていく。
まだ議論をしないといけないし、考えないといけない問題が残っているというのに。
一過性の流行りモノ
ムーブメントは内から起こるようになってる。
ラッスンゴレライを見てみると、メディアが売りたいと考えて、ゴリ押ししていたわけではない。
消費者から火がついて呼応するように、ムーブメントが形成された。今では「できた流行」にメディアが乗っかっている状態である。そして、ここに来てあきらかに露出が減っている。
議論を必要としない「流行りモノ」が増加して、消費者の目がそちらに向いてしまっているように感じる。
仮に、世界に10人しか住んでいなければ、「流行りモノ」のサイクルは遅く持続性があると思う。
しかし、世界の人口は約70億人にものぼる。ということは、サイクルは必然的に速くなり、次々に更新されていく。
この「内からの流行発生は」ここ数年で発達してきたと感じる。SNSが原因で個人が発信できやすい環境が整備されたのに問題があるのではと感じる。
- Youtube
- Vine
など様々あるが、少し前に比べ動画での発信が主流になりつつある。
個人が発信できやすい環境はいいことである反面、「メディアの衰退」を促進している原因の一つなのかもしれない。
結局はメディアも企業である
本質的なことは何一つ変わらないんだろうが、昔以上に消費者に合わせている気がしてならない。
昼時にチャンネルを回しても同じような番組が多いのはこのためか?
テレビ局も新聞社も企業である。収益がないと企業としてなりたたなくなる。
テレビでいうと「広告費」が収益の多くを占めている。なので、視聴率が低くなると広告枠の値打も下がるので、なんとしてでも消費者にチャンネルを変えさせたくないわけである。
じゃあ、どうなるかというと「一日を時間帯で分け、その時間帯にあったセグメント向けに番組構成をする」となる。
これは誰でも思いつくことですし、「犬とラーメンは数字をとる」みたいに昔から言われてきた手法だ。
この手法がより再分化され各放送局が同じことをするから、差異がなくなってしまうのではないか?
また、目線が消費者に向いてしまう現状はある問題をおこしてしまう。
それは、「捏造という事実を捻じ曲げる」事態でだ。
先日、友人がテレビの取材を受けたらしが、事実を捻じ曲げられ編集をされていたそうだ。
こうなってくればいよいよ、メディアが大衆を動かすという「メディア>消費者」の図式から、消費者に媚びるという「メディア<消費者」の図式へと様変わりし、はっきりと顕在化してくる。
結局はメディアも企業で、利益をあげないと成り立たないし、そのためにはお金になる消費者目線になるのは必然であるということ。
まとめ
- チャンネルの枠が形骸化した
- メディアがモバイル化している
- 情報取得のパワーバランスが変わりつつある
- 流行の発信源は消費者から
- テレビ局も収益がないとつぶれる(だから差異がない)
箇条書きで書けばこれだけですむのに、なんともまあ長文。文章力が無さすぎる。
個人で考える力がやっぱり大切
BPOという放送倫理を守る機関がある。放送禁止用語とか、ふさわしい番組内容とかの規制をだす機関のこと。
なんでもそうだが、規制があるのはダメことではないん。しかし、縛りすぎると差別化ができなくなり、形骸化の道まっしぐらになってしまう。
昔に比べ、メディア(特にテレビ)の自由度というか、選んでしまってる感は、多くの人が感じていることではないか。
「過激な発言をもっとしろ」というわけではないが、もっと気にせずにやってほしいと思う。