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【読書】議論のウソ / 小笠原喜康

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 テレビで出てくる該当調査に違和感を感じないだろうか。何かを発信する時には、何かの目的が必ず存在する。

お金なのか、利権なのか、宣伝なのか、操作なのか。発信側が必ずしも公平に調査しているとは限らない。

当書はそんな「発信側の真意を分析してみようではないか」という内容。

仕事で資料を作る際、統計やアンケートを調べる。各省庁のデータベースは概ね信用できると思うが、調査会社のデータはよく見たほうがいい。

アンケート調査の統計をネット上で探していた際に、対象者が2,000人ほどの統計を見つけた。

対象者の内訳を見てみると、0歳〜20代が14%で、30代〜40代が60%となっていた。

調査内容が「携帯電話(スマホ)」についてなのに。

調査結果はというと「スマホは持ってるけどそんなに使用しないし、スマホは外じゃなく家で使用する」というものであった。

これは明らかに、ITリテラシーの低い人を対象にしており、用意された結論(スマホそんなに使わない)に合わせて調査しているように感じる。

そしてふと思い返すと、テレビに出てくる街頭インタビューも結論(主張)にあわせてインタビューをしているように思えてくる。

そもそも、意図した回答でなければそれは使わなければいいし、編集でカットをすることもできる。

中立な意見ばかりでないことは明白だ。メディアの主張の裏にある真意を理解する必要があるのではないか。 

自分の意見は持っておくべき

 さて、本書の内容は四つの項目に分かれている 

  • 統計
  • 権威
  • 時間
  • ムード

全体をとおして感じたことは、主張の裏を見抜き自分の意思で問題を認識することが重要であるということ。

簡単に要約すると以下のとおり。 

  • 統計ー数字への信用
  • 権威ー学者等の専門分野への信用
  • 時間ー昔の物事への信用
  • ムードー雰囲気や同調に対する信用

では、私個人の見解をまじえ、簡単に考察してみる。

 1)統計(数字)

 数字というのは抽象的である。物事の傾向や推移を分析する際に使用すれば定量的な事実となるため、立証する裏付けとしてよく使用される。 

目に見えるモノとして出せるため、意見に説得力を付けることができる。

そのため、データがある主張は一見論理的な見解かと勘違いしてしまう。

数字に対して絶対的信用をしてはいけない。データが出ているからといって正論だと鵜呑みにしないことが大切。

2)権威

 専門的なことに触れられている時、その分野の学者有名な著名人が発言していると、なぜだか信用してしまわないだろうか。

「専門用語を並べて話を進め、○○の専門家がこういう・・・」と続けばなぜか説得力あるように感じ安心感を抱くと思う。

自分が精通していない分野になると、ついつい「権威ある人が言ってるしな」となってしまう。自分はわからないけど○○の学者が言っているのなら。

他人の発言に触れることは間違いではないが、信じ込むのは少し違うような気がする。

これは、権威がもたらす信用であり、受け手側がその発言の真意を問うべきだと思う。 

3)時間

時間がたつにつれて事態が変化しているにもかかわらず、その変化を問わないで、以前の結論に固執する事から生じる虚偽

 昔は妥当な主張でも、時代が立つにつれ変化する。

様々な技術や思想などは、日進月歩たえず変化していく。この変化に対して、保守的になって現環境を変えようとしない人たちが存在する。それは、単に面倒くさいのか、利権が絡んでるのか。 

何かの行動で「昔からやってるしな」と昔からの物事に対して、信用をしてしまった経験はあるでしょう。

昔からしている取り組みだからという理由で辞められない。なんてことはどの分野にも当てはまりまると思う。国の政策なんていい例だ。

4)ムード 

 ある特定のムードが作られてしまうと、無条件で信じてしまう傾向(雰囲気)にある。 

ここでは学力低下を題材に、ゆとり教育との関係性を分析している。

「ゆとり教育が学力低下に直結している」と各メディアが報道し社会的な問題とされれば、ハッキリとした事実がなくてもゆとり教育はダメなんだという「ムード(雰囲気)」ができ、「これだからゆとり教育は・・」などとなってしまっているのではないか?

「○○依存」とか「○○問題」などとすぐ社会問題化してしまうからねメディアわ。

著書の専門分野らしく、偏向がみられなくもないが、PISAの順位を用い批判されていておもしろい内容であった。

筆の乗り具合からすると、一番書きたかった内容なのだろう。

まとめ

 送り手側の主張には、何らかの意図があると認識しながら、日々を過ごす事が大切ではないだろうか。

その主張が論理的に、あってる・間違っていると言いうわけではなく、「送り手側も人であり企業なんだ」ということを認識すべきであるということ。 

世の中で起こっていることや言説には、必ずしも白黒がつけれない場合が多いかもしれないということに行き当たる。

多くの事柄は、複数の解答をもっていることの方が常態ではなかろうか。

著者も言っていたが、社会には不透明なものもあり、必ず正否を証明できない場合がある。これは、見る(考える)角度を少し変えれば、違った見解ができると言うこと。

だからこそ、自身で考える力が必要であり、メディアを懐疑的に見る能力が必要であると感じる。(疑う目とは、信用するな!というわけではなく、一つの意見なんだなと思うこと)

過去の実績を鵜呑みにしない

 私が考えていた時間に対する信頼を補足しておきます。

物事において、年数(時間、労力)をかけた分だけ信じたくなる心理が存在する。

  1. 6年前に、離職率低減のために社員旅行を導入した
  2. 離職率が35%から28%になった
  3. それから、毎年旅行を開催している
  4. 今年の社員旅行はどこにしょう?(現離職率は33%)

少しは効果かあるのかもしれないが、大きな要因ではないかもしれない。

ただ、「毎年開催しているし、初年度7%もの低減ができたし」といった、今までやってきたことに対しあたかも価値があるかと錯覚し信用してしう。

これは、倍々ゲームのようになる。だから辞めれない。

「げんを担ぐ」などと昔からやっていることは、中々辞めることができない。そんなことはこの世の中に山ほどあるだろう。

ギャンブルでも「せっかくここまで(金)つぎ込んだんだから、もう少しで結果が出るはず」と思いたくなる。

というか、うすうすづいていても信じるしかないと思い込んでしまうのではないか? 

これは、日本の政策にも言える。

 「もう何億円も使ってやっているし今さら白紙に戻すなんて・・・」

中小企業を支援するのは良いことであると思うが、時間(時代)というのは立つ(変化する)ものであり、維持が全てではなく切ることも重要であると思う。(当事者だったら、こう思わないかもしれないが)

「せっかくやっきたから」という間による信用は捨てる場合も必要。

頭ではわかってても中々できない切る決断。出世するためには必要であろう。