【読書】 世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析 / 斉藤環
以前に、「ヤンキー化する日本」の記事を投稿したわけだが、普段から感じていた違和感を明確化してくれ、なお且つ記憶に刷り込むように前作の宣伝をされた。
やたらと作中に当書のタイトル「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」という言葉が出てくる。
独自の「美学」を持つヤンキー
サブタイトルでもあるように、「ヤンキー分析」を全編通してされている。
「ヤンキー = 美学(美徳)の追及」が本書のメインテーマ。
日常生活では特に疑問視しない、「日本人の不思議な習性」を独自の視点で分析されている。
精神科医という立場からの考察で、あきらかに私にはない視点で非常におもしろかった。
ここで「ヤンキー」の意味するところを、作中の言葉を借り以下に説明する。
- 日本人歌手なのにほぼ英語の歌詞(意味をなしていない英語)
- リアルを美徳としている層の共通事項
- 地元愛、縦社会、グループ、縦横の繋がり
- ベタで王道な友情、本音、ガチ理論←なぜ心躍るのか?
- 泥臭い根性論や気合い主義
- 外国への憧れと嫉妬
これらの要素を持ったものはヤンキー的に部類される。
これらの項目に違和感をもった事がある人は一読をおすすめする。
経済の中心は「ヤンキー層」?
世の中の棲み分けを「オタクとヤンキー」と二分した場合、マジョリティなのはヤンキーのほうで社会のどこにでも存在している。
マジョリティであるからこそ、「ヤンキー要素を持ったモノ」が消費者に好まれる。日本経済は明らかにヤンキー的(先述した項目の)というものが存在すると私は思う。
世の中のヒット作には特定の条件がある。
作中の言葉を借りるなら「気合い、バットセンス、アゲアゲなノリ」の要素のどれかが少なくてもある。
・根性でピンチを乗り切る(下から上のベクトル)
・洗礼されすぎていないニュアンス
・アップテンポで論理よりノリ
そして、全てに共通するのが「もれなくベタである」こと。これがヒットや流行、大量消費に欠かせない要素なのではないだろうか。
キャラ立ちも要素の一つ
ただ、日本という市場で成功しているのは、必ずしもヤンキー要素をもったものではない。
どちらかというと、「キャラ作りがはっきりしている」という表現のほうがしっくりくる。
「ヤンキー=キャラ立ち」は必須項目。
グループ内には、リーダー担当、お笑い担当、イケメン担当など様々な役割がある。言えばイメージできるだろうか。
「そもそも、そんなこと無かったのに、その役割に合わせてしまっていた」そんな経験があるかもしれない。
日本人は、○○担当や○○系などと何かとカテゴリーにするのを好む。
著者も言っていたが、ヤンキーは一種のパロディ要素がある。
そんなつもりはないのかもしれないが、何故か風刺的に映る。
ただ、このパロディ(キャラ立ち)要素こそ大衆を魅了するし、消費者が欲している要素であるように思う。
妖怪ウッオッチにしても、芸能人にしてもヤンキー的要素の集合体なのではないか?
ヤンキーには女性的要素がある
また、作中に興味深いことを言っていた。
ごく単純な言い方をすれば、僕は男性の欲望を「所有原理」、女性の欲望を「関係原理」としてとらえている。
「 男性は所有原理」で「女性は関係原理」。
また、結婚に対して何を求めるかという点ではこのように言っている。
女性は、結婚を「新しい関係のはじまり」と考える。これに対し、男性は結婚を「性愛関係のひとつの帰結」と考えている。
結婚というのは確実な所有の形式で、所有物をどんどん増やそうとする(不倫、浮気)
一夫多妻制とかは所有原理の欲望が働いているらしい。
女性は「量」より「質」で、関係を強めたいもしくは広めたいんではないかと思う。
つながりに趣きを置き関係に意味を求めるのではなく、関係していることに意味を求める。
’ヤンキーもつながりを重要視し、地元や家族(ツレを含む)をプライオリティの上位におく。だから、ヤンキーは女性的であると著者は言う。
もちろん例外なんてたくさんあるし、一般的傾向にほかならないと思うが、あながち間違ってはいないと感じる。
私たちは、生まれながらにこのヤンキー性に触れ育っているのは間違いない。
もっというと、一つの民族と表現は可能ではないか?